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手記 その4

埼玉県から母子避難の末、最近家族で移住されたママさんの手記です。
言いたいけれどどういっていいかわからない私の気持ちを代弁してくれたような手記でした。
読んだ後は涙が止まりませんでした。

 

 

 

私は3人の子どもを持つ30代の専業主婦です。
埼玉県から大阪の実家に母子避難→3月に夫も合流しました。

東日本大震災発生時は、当時築9ヶ月の自宅に居ました。
長女は幼稚園の年中組、次女は3歳になったばかり、私は妊娠8ヶ月でした。毎日、幸せでした。

それは、長い長い揺れでした。
状況を確認するためにつけたテレビで、街が津波に飲み込まれていく映像が延々流れていました。それから何日も、テレビの前から離れられませんでした。
あの時、テレビではなくインターネットを見ていたら。今はそう悔やんでいます。

震災直後は、仕事中の夫とは連絡が取れず、夫の安否確認もできず、こちらの安全を伝えることもできませんでした。
埼玉に海はないから、津波など来ないと分かっていても不安で不安でたまりませんでした。
夜になって「ゲンパツ」が事故を起こした、というニュースを見ましたが、私は「ゲンパツ」というものが、何をしてるところかよく知りませんでした。
今まで経験したことのない大きな地震があったこと、見たこともないような大津波がきたことと比べれば、当時の私にとってそれは些細な出来事でした。
都内に住む弟から「目張りをしろ」「海藻を食べろ」「絶対外に出るな」という内容の長いメールが来ましたが、何のことかいまいちピンと来ませんでした。
翌日「ゲンパツ」が爆発しました。
(福島では、避難しないといけないところもあるらしい。でも、テレビでは直ちに健康に影響はないとやってるし、ここは福島から200kmも離れている。爆発に巻き込まれるわけでもないし、大丈夫…)
それにしても-弟からのメールが気になりました。目張りこそしなかったものの、なるべく家の外に出ず、窓も開けず、洗濯物も家の中に干す。そういう生活が始まりました。
ちょうど、計画停電もはじまりました。幸い、自宅は一度も停電することはありませんでしたが、身重の体で幼い2人の子どもたちの世話をしながら、いつあるかわからない停電に毎日備えるのは、それだけで一苦労でした。
幼稚園も短縮授業になっていて、午前中だけだったので行かせてしまいました。お迎えに行ったときに、お父さんがドイツ人のお宅がお父さんと子どもさんだけ地震後すぐに帰国されたことを聞きました。
いま、日本で起こっていることを海外はどう見ているのだろう。
ふと気になって、アメリカに住んでいる友人にメールで聞いてみたところ「アメリカでは日本の原発が大変な事故を起こしたと連日報道している。私があなたなら、子どもたちを連れてすぐに関東を離れると思う」というような返信があり、とてもショックを受け、それからの私はインターネットで貪るように原発関連の情報を探して読みつづけました。
それでも、私たち家族は、ここに家を建てたばかりだし、夫は仕事もあります。工夫し、気をつけながら、ここで暮らしていくしかない、そう考えていました。
そうこうしているうちに、東京の水道水から放射性物質が検出されたニュースが報じられました。蛇口をひねって出てくる水に、毒が混ざっているなんて…これからどうやって暮らしていけばいいのか、一気にわからなくなりました。慌ててミネラルウォーターを買いに行きましたが、当然売り切れで手に入らず、ペットボトルのお茶などを買ってきて飲んでいました。
ここで、新しい家族を迎えて、楽しく暮らすはずだったのに。
子どもたちが庭で遊びたいと言っても、表に出してやることもできません。外で遊びたい思いが募って、勝手に庭に出ていた子どもたちを怒鳴りつけたこともありました。
幼稚園までの送り迎えも、放射性物質がたまりそうなところを教えながら、草花に触れてはいけないよ、と注意しながら歩くのです。
思うように遊べないストレス、子どもたちに我慢させるストレス、母も子もストレスと付き合いながら、できるだけ被曝しないように気をつけながら暮らす。
安全である根拠を探しながら楽しく暮らすなんて、矛盾していてできっこありません。
放射能や内部被曝については自分なりに勉強しましたが、結論は「わからない」でした。日本の子どもたちに健康被害が出るのか出ないのかもわからないし、低線量被曝が危険かどうかもわかりません。それでも、危険を訴える人がいて、あるのかないのかわからないのであれば、念のために危険側に立って対策をすることにしました。

自分の出来る範囲で遠くに行くことに決め、3月31日に大阪の実家に避難し、5月に、元気な女の子を出産しました。
1ヶ月検診を終え、6月後半に自宅に一度戻りましたが、夏休みに入ると同時に再び大阪に来て、以来自宅に戻ることはありませんでした。
夫の両親には手紙を書きましたが、「関東にもたくさん子どもは住んでいるのに、避難なんて理解ができない」と、勘当状態です。
夫も私も子どもたちも、それまでの人間関係も財産も、すべて諦めて大阪に来ました。
こちらに来て、関西の人に「原発事故の影響で避難してきた」と言うと、「大変だったでしょう。でも、小さい子供さんがいるんだから、その行動は当然だね」と言われることが多いですが、本当にそうでしょうか?
もし、九州や四国、福井の原発で事故が起きたら、関西に住む皆さんは全てを諦めて逃げられるでしょうか?
恐らく、多くの人が行動しないでしょう。
家がある、ローンがある、仕事が、学校がある…動かない為の理由はいくらでも探せます。
避難や、移住というのは、口で言うほど簡単でも甘いものでもありません。
それでも私は実家がたまたまこちらにあって、助けてもらうことができたので、ゼロからスタートした方の比ではないと思いますし、危険を感じながら残り続けることの苦労・精神的苦痛もまた、想像を絶するものです。

西日本の皆さん、どうか、今回の原発事故から学んでください。
本当に、東北・関東の原発事故被害者を思い、絆というものを感じているのであれば、同じ過ちは繰り返さないでください。
大飯原発、伊方原発の再稼働にNOの声を上げてください。
内部被曝の危険性を過小評価し、瓦礫や肥料に形を変えながら放射性物質を拡散する政府の方針にNOの声を上げてください。
私は無知で、幼い子どもたちやお腹にいた子どもを被曝から守れませんでした。
子どもたちの将来を、手放しで楽しみにできなくなってしまいました。
被曝しなかった幸運を、無駄にしないでください。
生まれたばかりのわが子の、曇りのない眼差しを思い出してください。
お子さんたちに、安全な食材を与える努力と手間を惜しまないでください。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、地域の大人の皆さん。
どうか、子どもたちの真っ直ぐな信頼に応えてあげてください。

今、私の子どもたちは大阪の地でのびのびと外遊びを楽しんでいます。
家族そろって暮らせるようになった今、諦めたものは振り返りません。
命を守り繋ぐという、シンプルな営みが当たり前に続いていく、誠実な社会を皆で目指していけたらと思います。