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手記 その6(森松明希子さん)

その後、手記6は、さらに詳細を加筆し、

震災から2年半までを綴った母子避難本として出版されました。

『母子避難、心の軌跡〜家族で訴訟を決意するまで〜』

(2013年12月・かもがわ出版)
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ha/0676.html



執筆者 森松明希子 (2012年5月・記)

 

私は、福島県郡山市から昨年のゴールデンウィーク明けに、
大阪に避難してきました。

家族は、夫と、現在4歳4ヶ月の息子、1歳8ヶ月になる娘の4人家族です。

大阪へは母子3人だけで避難して来ており、
夫は今もひとり、福島に残って私たち妻子の為に働いてくれています。

震災当日の2011年3月11日、
私は当時生後5ヶ月の娘と2人きりで自宅マンションにいました。
自宅マンションは、10階建ての8階の一室でした。

その日の午後もふだんの日常と何ら変わらず、
娘相手にのんびりと過ごしていました。
当時3歳になったばかりの息子は、
翌月の4月に入園する予定の幼稚園に2歳の頃から通っていた為、
こちらもふだんと変わらず、
朝8時に迎えに来る幼稚園バスに乗って幼稚園に行っていて不在でした。

午後2時46分、
とても激しい揺れを感じた私はすぐに地震だと気づきました。
とりあえず目の前にいる娘の安全を考え、娘の頭を守るように抱きかかえました。
でも、震度3や4のちょっとした揺れとはまるで違い、
その揺れはどんどん激しくなる一方で、私はその場に立っていられませんでした。
生まれて初めて、私は自分の命の危険を感じました。
と、同時に、娘の命の危険ももちろん感じました。

震度6は一瞬冷静さを失うくらい、ほんの一瞬でしたが、パニックに陥りそうでした。
ガーッという凄まじい音と揺れ、そしてあまりに激しい揺れで立っていられないので、
私は娘を食卓のローテーブルの下に寝かせたのですが、
当時生後5ヶ月になったばかりの娘は、
激しい揺れが自分を揺さぶってあやされているものと勘違いして、
キャッキャ、キャッキャと声を上げて大喜びして笑っていました。
命が助かった今となれば笑い話ですが、
当時はそれどころではありませんでした。

かなり長い揺れでしたが、
リビングにいた私が目にしたのは、
食器棚などの重たい家具やソファーが壁から離れ、
ピョン、ピョン、とまるでスローモーションのように
部屋の中央にいた娘と私の方に迫って来る様で、
今思い出してもゾッとします。

正直、地震だと最初に思ったのは間違いで、
何か別のもっとすごい事が起こっているのかと思ったくらいです。

それと、あまりに長い揺れで『終わりはないのか?永遠に揺さぶられ続けるのかしら?』と本当に恐怖でいっぱいでした。


幸い、娘も私もケガはありませんでした。
いつ長い揺れが収まったのかは分かりませんが、気づいた時には家中、
瓦礫の山で足の踏み場もない状態に唖然としたのを覚えています。

でも私の味わった恐怖はこれで終わりではありませんでした。

逃げ場を確保しようと、ふとリビングの端、ドアの方に目をやると、
廊下の辺りから水がアメーバのように滲み出ているのです。

自宅は古いタイプのオール電化のマンションで、
各戸(室内)に2日分くらいの温水を溜めておける大きな給水タンクが備え付けられているのですが、
そのタンクが震度6の揺れで傾いたり倒れたりしたらしく、
配水管も切断、破壊したことによって、
地震発生から1時間後くらいには、
自宅のリビングから各部屋に水が流れ出して、
全部屋が水に浸かってしまいました(水深10〜15センチくらい)。

娘は布団を敷いた寝室に避難させていたのですが、
そうこうするうちに今度は天井からも、
ようするに、9、10階の上階にある部屋も同様にタンクが倒れて浸水し、
その水が漏れて壁や梁の隙間から水が降ってきました。

はじめは雨漏りのような感じで、
赤茶色のおかしな色の水がポタポタと全部屋から落ちて来て、
まだ震度4くらいの余震も頻繁に起こる中、
私はマンションの強度が心配になりました。

しかも浸水と上から降ってくる水漏れで、
もう0歳の娘を寝かせておける乾いた安全な場所が
自宅には何処を探してもありませんでした。

まだ寒い季節で娘を濡らすわけにはいかないので、
外は小雪が舞っていましたが、
もう家を出るしかないと決意し、
生後5ヶ月にして初めて娘を“おんぶ”しました。

第2子出産のお祝いで頂いていたおんぶヒモは、
「首が据わる生後6ヶ月頃からの使用可」と書かれており、
頂いたままの新品でまだ着用したことがありませんでしたが、
私は一か八かで娘を背負ってみました。
何しろエレベーターの停止したマンションの8階から
何回階段を上り下りする事になるか分からなかったので、
『前抱きのスリングでは無理!』と判断して、
娘の首がどうか据わってて…と祈るような気持ちでエイヤァっと娘をおぶりました。

それに幼稚園にいるであろう息子を、
自分の足で捜索にも行かなければなりませんので…


当時3歳になったばかりの息子の事を
地震の揺れの瞬間から一時も忘れてはいませんでした。

園舎は確か前の夏に新築したばかり…
でもこの揺れだし…
ダメならダメかもしれない…
揺れている最中から、息子の生命も覚悟していました。
幼稚園の先生が守ってくれている(はず)と信じて、
祈るような気持ちでいました。

自宅が水没して下の娘の安全確保やらで、幼稚園へはすぐに向かえずにいました。
気がつけば地震から約2時間が経過し、
午後4時半の送迎バスの時刻となっていましたが、
ふだんは自宅マンション前までやってくる園バスはもちろんやってきませんでした。

息子と行き違いになってはいけないし、
また、息子が帰って来ても自宅に安全な居場所はないしで、
私は余震が頻繁に起こる中、
娘をおぶってオロオロしていたら、
自宅マンションの前にあった保育園が広間を開放して下さり、
そこへ「乳幼児を連れている人はおいで」と言っていただけました。

子どもたちにとって安全な場所を確保することが出来たので、
やっと息子を捜しに行ける、探しに行こうとしたのが夜の7時前で、
辺りは真っ暗になっていました。

幼稚園の先生がお迎えに行けていない園児の為に、
1軒1軒園児の自宅まで送り届けて下さる車に運良く遭遇出来たので、
やっと息子とも無事に再会が果たせました。

息子は幸いにもケガはなく、
ちょうどお昼寝時間中に震度6の揺れがあったため、
その揺れで目が覚めたという感じで、
地震の揺れ自体がトラウマになるという事もなく、
むしろその後の余震を体験し「自分は地震は全然怖くないんだ!」
と思っているようで、それは不幸中の幸いだったのかもしれません。

夫はその日「夜は仙台に出張だから」と言って、
早朝いつもどおり出勤していきました。
私たちの住んでいた郡山は、仙台まで新幹線で1時間くらいの所にあります。
地震発生時、瞬間的に『新幹線は止まってしまうだろうから乗ってたらまずいな』と思いました。
ただ、何時の新幹線で仙台に向かっているのかも聞いていなかったし、
それこそもう仙台にいたり新幹線に乗っている途中だったら、
今日中に夫に会えるだろうか?そもそも夫は無事なのかしら?と心配しました。

夫は通常勤務を終えて、
新幹線に乗るために駅に向かって歩いている道路上で地震にあったそうで、
すぐに職場に歩いて戻ったらしく、
幸い郡山市から離れてはいませんでした。

被災した職場の片づけをしたあとに、
勤務先に停めていた自分の車に乗って
夜中の11時頃に自宅マンションに戻って来ました。

自宅の玄関ドアと一階のロビーの郵便ポストのところに、
「子供たちは無事!皆でマンション前の○○保育園にいます」と、
マジックで書いた紙を貼り付けておいたので、
それを見て夫は私たちの居場所を何とか探し当て、
私たち家族はかろうじてその日のうちに家族四人、
全員無事に再会を果たすことができました。

その日から約1ヶ月の間、
私達家族は避難所暮らしも経験しました。


そんなわけで、私たちは震災で自宅と家財道具のすべてを失ってしまいました。
そして、震災直後の原発事故による放射能汚染が深刻で、
福島での生活再建をすることができず、
やむをえず家族バラバラの福島・大阪の二重生活をする道を選びました。
それが昨年の5月のことです。

大阪に避難してきてちょうど1年が経とうとしていますが、
まだ夢の中にいるようで、
早く地に足の着いた生活を送りたいと切に願っているのですが、
やはり、この二重生活が自分の中では様々な負担となっているようで、
なかなか落ち着いた生活、震災前の普通の日常を取り戻すには至っていません。

幼い息子と娘の健康を考えて決意した二重生活ですが
想像以上に厳しい避難生活が続いています。

二重世帯の維持(家賃、光熱費の2重払い)と
夫が幼い子どもたちに会いに来る為の移動交通費がかさんで、
経済的負担が家計を圧迫しています。
ですが原発から60キロメートルほど離れている郡山市は、
特に避難勧告や避難指示が出されるわけでもなく、
全くの「自主避難」であるため、
国や自治体からは何の補助も受けていません。

しかし福島県郡山市は、精一杯除染した所でさえも
放射能量測定器の示す値は目を覆いたくなる数値を示しており、
現実は公園での砂場遊びなどもってのほか、
子どもたちを買い物や通園であっても
少しでも外に出すのも恐ろしく、
普通に子育てを出来る環境とはとても言えません。

一年経ってもその現状は何ら変わらず、
むしろ個人レベルで測定器を持っているため、
現実から目を背ける事も出来るはずもなく、
本当に事態は深刻だと思うのです。

いっそ、妊婦さんや乳幼児のいる家庭だけでも
強制的に避難退去命令を出してくれたらいいのに…
と、何度思ったか知れません。

素人目にも非科学的だと思われる除染作業にばかり
マンパワーとお金をつぎ込んで、
ガレキをせっせと全国にまき散らすなど
非合理的なことこの上ないと思うのです。
 
汚染地帯からはガレキを運び出すより、
「人」(将来のある子どもたち)を、
それこそいくらお金を積んでも出すべきだと
切実に思います。



夫はこの1年、
月に一度、子どもたちに会えれば良い方で、
1ヶ月以上会えない時もありました。

『単身赴任や海外赴任のお父さんを持つご家庭と同じなんだ!』と
自分に言い聞かせて日々の子育てをしていますが、
「いつまで」という任期があるわけでなく、
おそらく相当長期に渡ってこの生活が続くと考えると、
子どもの精神面での影響が心配で、
本当に福島を出て来て良かったのかしら…と
この1年、何度悩んだかしれません。

お父さんが大好きな息子を引き離してしまったのは本当に正しかったのか?
まだ震災当時、生後5ヶ月だった娘はほぼ父親を知らないで育ってしまって
今後の父娘関係に影響は出ないだろうか?
なによりも、
家族の為にたったひとりで福島に残って
子どもの寝顔さえ毎日見る事が出来ない生活をしている夫の精神状態は本当に大丈夫なのだろうか?
休みがあれば、700キロ以上離れた大阪まで1人高速道路を車で飛ばして子どもたちに会いに来て、
大阪では24時間も滞在しない(できない)で、また同じ道をろくに休まずに運転して戻る…
せっかく会いに来てくれた夫ですが、
子どもたちには「お父さんはお仕事と運転で疲れてるから寝かせてあげて!」と
声を上げる私は母親として何をやってるんだろう???とか…

震災以降、親子共々、心も身体も休まるところがありませんでした。

福島に残れば目に見えない放射能の恐怖におびえ、
出たら出たで、不安定な生活と家族バラバラの日常を強いられる・・・

普通の福島県民としての暮らしが
あの日以来、一変してしまいました。



それでも避難して丸一年が経ち、
本当に徐々にですが、この現状を受け入れ、
前を向いて歩いていこうとはしています。

震災から一年以上経過し、
公的支援もどんどん打ち切られていく中で、
「現状を受け入れるしかない」ということもちろんありますが、
関西に避難して今まで母子3人で何とかやってこられたのは、
いまだ被災者、避難者の事を忘れず
心にとどめて下さっている方々がいてくださるおかげです。

どのような支援も、本当にありがたく、感謝するばかりなのです。

特にありがたかったご支援を具体的に申し上げますと、
例えば、
外遊びが大好きな子どもたちですが、
日々の生活がやっとで、
土日や休日でも子どもたちをどこかに連れて行ってあげるなど
全く出来ませんでした。

そのような中、大学生のボランティアのお兄さんやお姉さんが
子供たちと遊んでくれるという企画などは、
親子共々、心底ありがたかったです。

また、夏にはキャンプなどに子ども達を招待してくださり、
子どもたちは、大きいお兄さんやお姉さんと遊んでもらえたら
本当に喜びますし、
せっかく放射能汚染のない大阪に来たのにキャンプや川遊びとか、
赤ん坊を抱えてでは、私ひとりではさせてあげられないので、
本当にありがたく思います。

また、普段子どもたちと関わってあげられる大人は私ひとりきりなのに、
日々の生活を回すのが精一杯で、
子どもたちにはあまり構ってあげられないのが可哀想で、心苦しく思っていたのですが、
皆様のお力をお借りして、
また、たくさんの方々に子どもたちとふれあっていただけたら、
それが母子避難をしている私たち親子にとって、
なによりの一番望んでいる支援となります。
本当にありがとうございます。

他にも、
引越しでも男手がなく大きな家具を運搬することもままならない状況に、
社会福祉協議会の方が手を貸してくださったり、
引越し荷物の片付けなどをする間、
赤ちゃんの面倒を地域の保育ボランティアの方が見てくださったり…と、
本当に様々な方々に様々な方法で、色々助けていただきました。

関西で受けたご支援には、本当に感謝してもし足りないくらいで、
なんとお礼を申し上げて良いかわからないくらいです。
本当にありがとうございました。

また、社協の方が届けてくださる被災者向けの情報誌で、
被災者・避難者の交流会があることも知ってからは、
そちらに参加させていただき、苦労や悩みを分かち合うことができ、
それが私の心の拠り所、心の支えとなっています。
交流会で、同じ境遇の被災者、避難者の方たちと出会って、
自分だけではないのだということを知り、
ともすれば孤立し、誰にも相談できない悩みなどを聞いてもらったり、
また話したりすることで、どれだけ救われているかしれません。

そんな交流会を企画して下さった団体や、
その間、保育のボランティアに協力して下さった方々の存在のおかげで、
私は今まで何とか乗り切ってこられましたし、
これからも乗り越えて行かなければならないと思っています。


1年前の私は、悩みながら「避難することは本当に正しかったのか?」と
常にブレながら、悩みながらの避難生活でした。

でも今では、たとえ母子避難の苦労は大きかったとしても、
それでも福島から出てこられた私たちはまだラッキーなのかもしれないと思っています。

いろいろな事実が明るみに出るにしたがって、
そして私を含め、避難民などと呼ばれる人がこれほど多くいる現実を目の当たりにして、
避難したことについての迷いは、全くといっていいほどになくなっていきました。
むしろ「避難は正しかったのだ」という確信に、今では変わっています。

私と同じ年頃の乳幼児をもつご家庭のお母さんで、
福島に住んでいて不安のないお母さんは、
私の知る限りひとりもいません。

子どもを外遊びさせられるところを日々求めて、
また、長期休暇にはプチ避難(保養)出来る場所を探し求めているも、
ご親戚も全て福島県民という方も多く、
ほんの少しの間でさえも福島を出られない…
そんなご家庭はたくさんあるのです。

私も身動きを取れないでいた避難所にいる間の1ヶ月の間、
なんとか福島県での生活の再建をはかろうと、
相当悩みましたし、人生で最も多く深く考えた日々でした。
今よりもまだもっと様々な情報が飛び交う中での放射能汚染についての「不安」感、
福島での生活再建をずっと視野に入れて考えに考え抜きましたが、
やはり結論は、「逃げられるところがあるなら、
そして避難できる可能性があるのなら、
避難すべきだし、そうすることが子どもにとって一番だ」というものでした。

得体のしれない不安感や恐怖の中で、
常に心配しながら、しかもいろいろなことを制限されて生活することほど
ストレスフルなことはありません。

晴れの日、お布団は必ずお日様に当てるために外に干していました。
それをすべて布団乾燥機に切り替える。
洗濯物もさほど広い家でもないのに全部部屋干し。

福島では朝晩は結構涼しいので、
夏でも我が家はエアコンを作動させることはほぼ皆無でした。
窓を開ければ風が強いので真夏でも結構涼しく何とかしのげます。
それが、夏も冬も年中エアコン…

それが当たり前の人にとってはなんでもない事なのかもしれませんが、
こんな細かい日々の暮らしを
いちいち放射能の子どもに将来あたえるかもしれないという影響を考えて
変えて行かなければいけないのです。
上記の例はほんの生活の一部で、
それこそ、本当にいちいち、細かいことについていちいちなのです。

正直、放射能は目に見えないので、
「もう忘れて目をつぶって放射能汚染のことはなかったことにしよう、
大丈夫なんだと思うことにしよう」としてしまう自分が容易に想像できました。
でも、我が子の事を本気で考えたら、やっぱり妥協はできないし、
本気で考えたらノイローゼになりそうだし…
本当に日々悶々と考え続けていました。

何が嫌かというと「確実に健康被害が出るから予防的に何か対策をとる」というのではなく、「可能性があるからこうしておいた方が良い」という、
極めて曖昧な不安感や恐怖感のために、
生活全般の細かいことについて神経を払うというのが、
本当に疲労困憊を招くし精神的に心底消耗するのです。

母親だったら容易に理解できると思うのですが、
子どもに少しでも悪いかもしれない、という選択肢を選択する人はいないと思います。

今、4歳になった息子は、
毎日のように自転車に乗って家の前の公園に出かけていき
一度外に出たら帰って来ません。
1年前はまだ幼すぎて自転車にも乗れなかったし、
子どもに外遊びは大切、必要とは頭では分かっているつもりでしたが、
ここまで外遊びが好きな生き物だとは恥ずかしながら考えてもいませんでした。
息子が、幼稚園(でも十分外遊びさせていただいてます)から帰ってすぐまた、
公園に飛び出していくのを見て、
毎日のように「大阪に来て正解だった」と思っています。

1歳の娘は、公園で砂浴びをするのが大好きです。
お部屋に閉じこもっていられるのはゼロ歳児のほんの数カ月の間だけです。
歩き始めたら、屋内のみの生活などおよそ不可能です。
今では毎日砂を浴び、ヨチヨチ外をお散歩するのが大好きです。
道路はかならず側溝の上(放射性物質がたまりやすくいわゆるホットスポットとなり易いところ)とかの道の端を歩きますし、
歩くと必ず1回はコケます。
コケたら当然手をつきます。

今の私は、コケて顔に怪我でもしやしないか、
それだけを心配すれば良いのです。
1歳の子どもが道路で転ぶ、当たり前の動きに対して、
いちいち放射能による健康被害のことまで心配しなくて良いのです。

私の言っている普通の生活とは、
そんな本当に些細なことをいうのです。


震災とそれに伴う原発事故を経験して、
私は「あたりまえ」「ふつう」の概念が変わりました。
価値観も、人生観も、それから物事に対する評価基準も
すっかり変わってしまいました。

自分の子供たちには本当の意味での「生きる力」「生き延びる力」を
つけていってほしいと考えています。

そう教育していきたいし、今はその試練の時なのだと思っています。

最後になりましたが、
最近読んだ本のサブタイトルがとても共感できたのでご紹介します。

「自分の頭で考える事こそ最高の危機管理だ」

というものです。

あれほどの原発事故を引き起こしてしまったのに、
国は何の手だても、解決策も見出せず、ましてや原因解明すらなされていないままに、
再稼動に舵を切ってしまいました。
一部の地域の国民が犠牲を払いつづけてもなお、
国は何も学ばないのだと、驚愕し、心底失望しました。

私は最終的には、「自己判断」「自己決定」「自己責任」なんだと
日々痛感しています。
被災を通じてそのことを再認識した次第なのです。

それでも、心ある方々や、ボランティアの方、地域の方々の温かいお気持ちや、
お心遣いに支えられて、日々私たち親子は暮らしていられることに、
心の底からお礼を申し上げたいです。
本当にありがとうございます。